2010年4月2日金曜日

15.268 Choice Points (Copenhagen)

今日のChoice Pointsは、スペシャルゲストとして、ノーベル物理学賞を1990年に受賞したフリードマン教授が参加した。MITには、Novel Prize Winnerの教授は多く、講演を聞ける機会はあるものの、少人数のクラスで話ができたのは初めて。
今回の映画は、比較的新しい戯曲の「コペンハーゲン」。1941年、ナチスドイツ占領下のデンマークに、量子力学でともに有名なボーアをハイゼルベルクが訪ね、二人のセリフで物語が進む。ボーアは、デンマーク人でユダヤ系でもあったため、幽閉生活を余儀なくされた一方、かつてその弟子だったハイゼルベルクは、ドイツ人として原子力研究の第一人者だった。史実では、この二人は当時、会ったが、何を話したかは謎とされている。これがドイツの核兵器開発計画の可能性を知る一端になるため、色々な解釈をされ、それ自体が一種のコペンハーゲン解釈になっている。量子力学におけるコペンハーゲン解釈というのは、波のように存在確率が広がる量子が、いったん観測をすると、粒子のようにある場所に収束するものの、観測前にどこに粒子があったかは分からない、という、ボーアが提唱した量子力学の考え方。つまり、過去の真実を解釈しよう試みても結局分からないというアナロジーになっている。その原理を、ゲストのフリードマン教授自らが、光子スリット実験を例に説明してくれたが、文系が多いFellowsやPartnersには難しかった。私も、ボーアの哲学的な会話の中に、相補性とか量子力学の色々なアナロジーが散りばめられていたことに授業で気づかされた。物理が好きな人には、おすすめの映画である。
当時の会話の一つの解釈は、ハイゼルベルクがボーアに、ドイツの核兵器開発に協力を求めたというもので、映画では、その表向きの口実として原子炉の平和利用を上げていた。史実でも1941年の時点では、プルトニウムの存在が公知でなく、ウランでは臨界状態に必要な量が多すぎて、ハイゼルベルクは兵器利用には懐疑的だったという見方もある。もし、ハイゼルベルクがプルトニウムの存在を認識していたならば、その生産のために原子炉を稼動させたかった可能性がぐっと高まる。フリードマン教授は、ハイゼルベルクと面識があったとのことだったので、その点を質問してみた。教授によると、すぐ後の1942年にソ連の研究者がプルトニウム発見を発表しており、ハイゼルベルクはその存在と兵器利用の現実性を認識していただろう、とのこと。しかし、結局、ドイツの核兵器開発が進まなかった主因は、アメリカがマンハッタン計画で科学者を一箇所に集めたのに対して、研究者がバラバラに研究していて、意思統一がされなかったため、とのことだった。

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